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キャリア官僚として35年。
豊富な判断材料をクライアントに。

法曹界とは無縁の家庭で、祖父も父も音楽教師。私も幼い頃からピアノをやっていたが、高校時代には弁護士になろうと思って東京大学法学部に入った。法律は仮定を設け順番に組み立てて、その通りに辿り着くかどうかやってみるというプロセスが数学とよく似ている。数学が得意だった私は、法律に論理思考の共通点を見て面白いなあと夢中になった。

「岡田君、大学に残って研究しないか」と誘われたが「学者ってタイプじゃないなあ」と思い、大学3年生の時、試しに司法試験を受けたら合格した。4年生ではすっかり時間を持て余し、みんなが受けるから私もと国家公務員採用試験を受けたところ、成績が良かったので旧大蔵省(現財務省)や通産省から誘われ、大蔵省を選んだ。「面白くなければ辞めて弁護士に」と思っていたが、これが意外と面白くて官僚でいた時間が長くなってしまった。

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大蔵省では、花の昭和41年組と言われキャリアを重ねた。

若い時から仕事の流れを肌で感じ、現場で体を動かすという修行の連続だ。国税局で国税調査官をし、税務署長もしたが、長かったのは主計局。ここでは日本の予算の原案をつくる仕事をしていた。要求通りに予算はつけられないから相手とやりとりしながら削っていくのだが、稀に「これは絶対増やすべきだ」と思い要求より増したこともある。予算は全体のバランスが肝要で組立てていくプロセスは非常に面白い。

防衛予算の主計官の時、2週間ほどアメリカ出張をしたことがある。折しも米ソ冷戦の最終幕。最先端の軍事施設をくまなく観せて貰った。その1年後ソ連崩壊。歴史の変わり目をこの目で見ることができて最高だった。「給料はいらないからこの仕事を続けさせてほしい」と思ったほどだ。

とはいえ、予算折衝では落ち着き先の見えないギリギリの局面を何遍も味わった。この経験は、ピアノと似たところがなくもない。音楽も続けているとしょっちゅう天井にぶつかる。そこを何とか越すと一つ上にいくが、またすぐ天井がある。これは仕事の世界も同じだが、ピアノと違い逃げ出すことはできない。「何とか凌いで壁を突き抜けて」という経験をすると、また次に同じようなことがあっても「まあ何とかなるさ」と思えるようになる。結局、これを繰り返して生きてきたのだと思う。

環境省初代顧問、住宅金融公庫副総裁を経て弁護士に。

自分で言うのも何だが、私の最大の業績は環境庁を環境省にしたことだ。橋本龍太郎内閣の行政改革で役所の数をこれまでの半分の1府12省庁にすることが決まり、最後の1省を巡る攻防の結果、環境省を守り抜いた。「今どき環境省がないなんて国はない」と言って回り、賛同者を増やしていった。戦いながらも楽しい役人生活だった。失敗したら次がないという試練の場を何度ももらったので、色々勉強させていただいた。そのおかげで、失敗から学んだことも含め判断材料が自分の中にいっぱいある。

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2001年、環境庁最後の事務次官退官とともに環境省の初代顧問になり、住宅金融公庫(現独立行政法人住宅金融支援機構)の副総裁になった。社団法人全国労働金庫協会理事長、労働金庫連合会理事長を経て、2012年、人生の振り出しに戻り弁護士になることにした。

北浜法律事務所では租税絡みの案件や金融証券取引法、環境法を専門にやっている。若いパートナー弁護士とチームで仕事をする。長い官僚生活や金融機関の経営で得た経験を生かして、クライアントと仲間に貢献しようと思っている。顧問先でコーポレートガバナンスコードの世界の話をしたり、社外取締役を務める会社の工場視察に行ったり、一つひとつの仕事を丁寧に、時間をかけてできることが嬉しい。クライアントに寄り添う形で仕事ができるのを幸せに思う。

クライアントとともに。